スタジオジブリ制作の映画『火垂るの墓』は、原作者・野坂昭如さんと妹たちとの実体験の一部が取り入れられていますが、妹思いで優しい清太とは裏腹に、野坂さんはなかなか破天荒な人物でした。そのエピソードはまさに「事実は小説より奇なり」と言わざるを得ません。
◆戦時中、妹にご飯を与えなかった?──節子のモデルは1歳の妹
『朝日新聞第二部』1969年2月27日号に掲載された「舞台再訪 私の小説から」によると、野坂さんは実母を亡くしたあとに親戚の養子になり、妹2人も養子でそれぞれ血のつながりはなかったそうです。
妹たちは戦時中にどちらも幼くして亡くなってしまいますが、上の妹が生きていたときはまだ生活に余裕があり、『火垂るの墓』で清太が妹の節子に接するように優しくできていたと、『婦人公論』1967年3月号に掲載された随筆「プレイボーイの子守唄」で綴っています。
ところが、戦争が激しくなり、食べるものが不足すると、状況が一変します。
野坂さんは、当時1歳だった下の妹と兵庫県から福井県に疎開していましたが、家や家族を失い、精神的に追い詰められていた彼は、下の妹の面倒を煩わしく感じることもあったそうです。
1968年5月に雑誌『文学界』に発表した「五十歩の距離」では、妹に食べ物を与えず、自分だけで食べることもあったと明かしています。痩せ衰えて骨と皮だけになった妹は、誰にも看取られることなく餓死するという痛ましい最期を迎えました。
『火垂るの墓』の主人公の清太は、平和だった時代に野坂さんが上の妹に優しく接していた頃の姿を投影したものです。また、下の妹への贖罪と鎮魂の思いも込められています。
ちなみに「節子」という名は野坂さんの養母の実名であり、小学校1年生の時に一目ぼれした初恋の同級生の女の子の名前でもあったと、1980年に発売されたエッセイ『アドリブ自叙伝』(出版社:筑摩書房)で明かしています。
◆歌手として「バージン・ブルース」をリリース──「おもちゃのチャチャチャ」も作詞
野坂さんは非常に多彩な人物で、作家としてだけでなく、作詞家や歌手としても活動していました。
野坂さんは、1950年代から歌手活動をはじめ、1969年にレコードデビューを果たし、「バージン・ブルース」、「マリリン・モンロー・ノーリターン」、サントリーゴールドのCM曲にもなった「ソ・ソ・ソクラテス(ソクラテスの唄)」などのヒットを飛ばしています。
「バージン・ブルース」は、1974年に映画化もされ、野坂さんもゲスト出演して歌を歌っています。
また、「バージン・ブルース」は、1989年にサブカルの女王の異名を持つ戸川純さんがカバーしたため、今でもサブカル界では伝説的な名曲として語り継がれています。
ほかにも、1959年には「おもちゃのチャチャチャ」の作詞を手がけています。
当初は童謡ではなく大人向けの歌謡として作られた曲だったそうですが、のちに作詞家の吉岡治さんが子供向けの曲として歌詞をリメイクし、さらに知名度が上がりました。1963年には、「おもちゃのチャチャチャ」は「日本レコード大賞童謡賞」を受賞しています。野坂さんは、音楽界にも大きな影響を与えました。
◆入院するレベルのアルコール依存症だった?──泥酔して映画監督と殴り合いの大ゲンカ
野坂さんは若い頃からお酒の失敗の絶えない人であり、中島らもさんの『さかだち日記』(出版社:講談社、2002年5月出版(文庫版))というエッセイに、アルコール依存症についての対談が収録されています。
1990年には映画監督の大島渚さんとトラブルに発展したこともあります。当時、野坂さんは大島さんの真珠婚式パーティーであいさつを行う予定でしたが、大島さんの勘違いにより祝辞の順番を飛ばされ、その間に野坂さんは大量に飲酒して酩酊状態となってしまったそうです。
なんとか登壇して祝辞を終えたものの、野坂さんは順番を飛ばされたことに激怒して、野坂さんのあいさつを聞いていた大島さんの顎を目がけて右フックを食らわせたのだとか。
大島さんも怒り、マイクで野坂さんの頭部などを2発殴りつけ、大島さんの妻で、女優の小山明子さんが止めに入った姿が何度もテレビで放送されてしまったといいます。
2015年に野坂さんが亡くなった際、小山さんが『スポーツニッポン』の取材に答える形で当時を振り返りましたが、「あれはもう笑い話」と語っています。
また、1987年11月に出版された『赫奕たる逆光:私説・三島由紀夫』(出版社:文藝春秋)で、野坂さんの祖父もお酒で失敗しており、警察官から骨董品を扱う仕事に転職したと明かしています。酒癖の悪さは遺伝なのかもしれません……。
◆永六輔さんの会社で使い込みをする?──警察の追及を恐れた結果……
野坂さんには、大学生の頃に勤めていた会社のお金を使い込んでしまったという破天荒なエピソードもあります。
歌手・さだまさしさんが書いた『笑って、泣いて、考えて。永六輔の尽きない話』(出版社:小学館、2016年11月出版)によると、野坂さんは、永六輔さんの会社で経理担当の専務に就いていましたが、ミスを連発し会社の経営が悪化。
さらに、野坂さんは会社のお金を使いこんでいたことが発覚し、クビになってしまったそうです。
2015年9月に出版された『マスコミ漂流記』(出版社:幻戯書房)によると、野坂さんは使い込みをしたことを認めており、警察から追及されることを恐れて、公訴時効がいつなのかを六法全書で調べたことがあるとのこと。野坂さんの破天荒ぶりは、若い頃から健在だったようです。
──野坂さんは、作家、歌手、作詞家として、多方面で活躍しました。しかしその一方で、戦争やお酒に翻弄され、想像を絶する苦労をしながら生きてきたようです。
そんな野坂さんが執筆した『火垂るの墓』は、日本が同じ悲劇を繰り返さないためにも、語り継いでいかなくてはならない作品といえるでしょう。
〈文/花束ひよこ〉
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