<この記事にはTVアニメ・原作漫画『鬼滅の刃』ならびに『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』のネタバレが登場します。ご注意ください。>
『鬼滅の刃』の多くの鬼たちは、今際の際に失っていた人間時代の記憶を想起する描写があります。この通り、鬼と「記憶」は大きく関わっているのですが、中には人間時代の記憶を保持したまま鬼となっている者もいます。この違いはいったい何なのでしょうか?
◆人間時代の記憶がある鬼の共通点
作中では、明確に記憶のある鬼とない鬼が登場しています。具体的に例をあげると、それぞれ次の通りに分類できます。
・記憶がある鬼は、黒死牟、童磨、獪岳、響凱など……。
・記憶がない鬼は、猗窩座、堕姫、妓夫太郎、累、手鬼など……。
まず、記憶がある鬼たちの共通点に着目してみたいと思います。それが鬼となった「経緯」です。響凱のみ鬼となった正確な経緯は不明ですが、黒死牟、童磨、獪岳は自ら進んで鬼となっています。黒死牟は、弟である継国縁壱の才能に対して常に激しい嫉妬心と劣等感を抱いていました。そして鬼舞辻無惨と出会ったことにより、縁壱に追いつくために自ら進んで鬼となっています。
童磨は幼いころから両親に新興宗教の教祖として担ぎ上げられており、周囲の人間を内心で見下し、憐んでいました。そして20歳のときに無惨と出会い、その感動から無惨を神と崇め自ら鬼にしてもらっています。
獪岳は、自分が周囲に認められないことに対して激しい怒りを抱いていました。そんな獪岳は絶対的な強者である黒死牟と出会ってしまったことで、生き残るために自ら進んで鬼となる決断をしています。
ここで注目したいのは黒死牟と獪岳です。この2人に関しては、人間時代にそれぞれ劣等感や怒りといったネガティブな感情を抱いていました。実は響凱も第25話の描写から、同じようにネガティブな感情を抱いていたことが分かっています。
自身の書いた小説を「ゴミ」と言われ、「紙と万年筆の無駄」とまで貶され、そして踏みつけられていました。この時の響凱の怒りは衝動的に相手の命を奪ってしまうほどのものだったのです。しかも、響凱が抱えていた感情は「怒り」だけではありません。
自分の存在価値を見出せない「閉塞感」や「劣等感」なども同時に抱えていたのです。炭治郎との戦いの中でも響凱は誰かに「認められる」ことを願っていました。そんな響凱は一時的とはいえ、無惨に素質を認められ「十二鬼月」まで上り詰めています。そう考えると、響凱も自ら進んで鬼となった可能性は高いのかもしれません。
つまり、記憶のある鬼たちは人間時代に自分の思うような人生を送れていなかったという共通点があるのです。だからこそ、自ら鬼となり「新たな人生を歩みたい」と考えていたと捉えると筋が通ります。
ちなみに童磨の場合は、ネガティブな感情は一切ありません。しかし、童磨はそもそも人間の感情が理解できていないので、イレギュラーな存在だったと考えていいでしょう。
◆人間時代の記憶がない鬼の共通点
一方で記憶のない鬼たちは、自ら望んで鬼となったとは言い難いです。猗窩座の場合は無惨との遭遇自体が事故のようなものでした。ただ堕姫や妓夫太郎、累は一見すると自ら鬼となることを選んだように見えます。
しかし堕姫の場合は、第96話で既に瀕死の重傷を負っており、童磨と出会っていなければ確実に命を落としていたでしょう。妓夫太郎も堕姫を救うためには鬼となるしかないので、選べる状況ではなかったといえます。
補足すると、妓夫太郎は今際の際で「何度生まれ変わっても鬼になる」と決意していました。しかし第97話で、その決意のせいで堕姫を鬼にしてしまったことを後悔しています。最終的には何度生まれ変わっても「兄妹になる」という気持ちに変化しています。
また累も第43話で「救ってあげよう」という無惨の誘いに乗っています。しかし累は生まれながらの虚弱体質で、自らの不遇な身体や生活に日々精神的な負い目を感じていたと考えられます。
そんな生活から救われるなら、子供だった累が無惨の甘言に乗ってしまうのも無理はないでしょう。実際、累は無垢な気持ちで強くなった鬼の身体を両親に見せにいっています。つまり、堕姫や妓夫太郎、累が鬼となったのは、弱さに付け込まれた不可抗力とも捉えられるのです。
さらに、記憶を失っている鬼たちは共通して人間時代の記憶に「後悔」を伴っています。堕姫は常に自分が兄の足を引っ張ってしまっていたことを、妓夫太郎は自分がいなければ妹がもっと幸せな人生を送れたのではないかということをそれぞれ悔いていました。
累も、自分を想ってくれていた両親の命を奪ったことで、渇望していた「家族の絆」を自ら断ち切ってしまった後悔を抱えていました。そして、猗窩座も守れなかった後悔が、手鬼も自らの兄を食ってしまった後悔があったのです。
つまり、自ら忘れたいと思うようなトラウマのような記憶を持っている鬼が、記憶をなくしているのではないでしょうか。
◆「呪い」による無惨の束縛と『鬼滅の刃』のテーマ
第98話で無惨は「人間の部分を多く残していた者から負けていく」と語っています。つまり、無惨は「人間性」を鬼にとって最も不要なものだと考えているのです。そして、人間時代の「記憶」は深くその人物の「人間性」に関わっています。
そう考えると、自ら鬼となった者たちは人間時代の記憶があっても、その「人間性」を捨ててまで鬼として生きる決意をしているので無惨からすれば何も問題はありません。しかしそうでない者たちは、人間時代の記憶を思い出すことで鬼として不利益なこと……、ひいては無惨が想定してない状況を引き起こすかもしれないのです。そういったリスクを考えて、あえて無惨が人間時代の記憶を消去しているとも考えられます。実際、無惨は「呪い」を通してすべての鬼たちの思考を監視できるのです。
また「記憶」は『鬼滅の刃』において重要なテーマを担っています。それが分かるのが第103話で小鉄が言っていた「記憶の遺伝」です。小鉄曰く姿形だけではなく、受け継がれていくものとして「記憶」があると説明していました。まさに「記憶」とは作中のテーマの1つである「継承」とある意味同義だと解釈できるのです。
これと近しい意味として第137話で産屋敷が、鬼殺隊は人々の想いを継承することで「永遠」になると言っています。対して無惨の考え方は、自身のみが永劫に生きながらえることこそが「永遠」だったのです。つまり、想いを受け継ぐ人間の「記憶」を残していること自体が、無惨の根本的な考え方と矛盾することになるのです。だからこそ、自ら「人間性」を断ち切っていない者の「記憶」を無惨は消去する必要があったのではないでしょうか。
──「記憶」が「人間性」や「継承」を表しているとしたらなかなか面白い設定です。そしてその「人間性」を放棄した、あるいは放棄させられた者が鬼となるなら、辻褄が合ってきます。しかし、そんな鬼たちが最期を迎える時に必ず思い出すのが人間時代の「記憶」だというのは、なんとも皮肉な話でしょう。
〈文/fuku_yoshi〉
※サムネイル画像:Amazonより 『鬼滅の刃 第1巻(出版社:集英社)』
※鬼舞辻の「辻」は「一点しんにょう」が正しい表記となります。