面白いですよね『グリッドマン』!
特撮技術を応用した熱い戦闘シーン、『エヴァ』を思わせるカットや音楽。
「上半身担当」や「下半身担当」、悪役ヒロイン・新条アカネに付けられた「円谷のヤベーやつ」など、キャッチーな新語が飛び交ったことでも有名です。筆者も大ファンです。
しかし、大好きであるからこそ、一つの違和感をぬぐえずにいます。
『SSSS.GRIDMAN』の最終回は、本当にハッピーエンドと言えるのか?
世界観を調整する要素。
アニメにせよ映画にせよ、作品の世界観を形作るための裏設定が存在します。
ずばり、「子どもと小動物は死なない」。
例えば、有名なゾンビ映画『バイオハザード』でさえ、「幼児のゾンビ」は一切登場しません。動物のゾンビも「カラス」「ドーベルマン」といった、一般的にあまり保護欲を感じさせない対象に留まっています。
この世の終わりのような作品世界を演出しつつも、視聴者に与える不安や不快感はしっかりセーブされているのです。
逆に、犬でも子どもでもお構いなしに死んでしまう『アイ・アム・レジェンド』『ミスト』などの映画は、厳しく救いようのない世界観の構築に成功しています。アニメでは『魔法少女まどか☆マギカ』が該当しますね。
ある作品世界において、「人が死ぬかどうか」「死ぬとして、誰がどう死ぬのか」は、非常に重要なファクターなのです。
救われなかった命。
ひるがえって、『グリッドマン』。
第1話にて、問川をはじめとするバレー部員5名が、新条アカネにより殺されています。女子高生を「子ども」に当てはめるには難があり、直接的な殺害の描写こそ避けているものの、「人死にが起こりうる」という不穏な世界を提示しているのです。
一方で、新世紀中学生とのコメディ色の強い掛け合いがあったり、呑気な雰囲気のボイスドラマを発表したりなど、緩い世界観も魅せています。
この流れを観て、筆者はこう予想(安心)しました。
「ああ、最終回でみんな生き返るんだな」と。
しかし。怪獣に殺されたキャラクターたちは、復活しなかった。
これまでの緩い世界観からして、もろ手を挙げてのハッピーエンドは「新条アカネの改心とアレクシス・ケリヴの打倒を介して、みんなが生き返って元通り」という道しかなかったはずなのです(同じ意味で、『ゲゲゲの鬼太郎』第5話で女性記者がかみなりに殺害されている点も未だに納得できません)。
破壊された世界を修復する能力「フィクサービーム」で逆転を果たしたグリッドマンですから、問川たちが復活する展開だって不自然ではなかったはず。
その後バレー部員の練習の様子を魅せたり、復活したユーチューバーが何事もなかったかのように四人組で活動を再開している動画を挟んだりと、彼ら彼女らが何事もなく平和に生きている展開・演出は数秒もあれば可能だったはずです。
というより、最終回でそのようにサラリと挟みやすいがために「ユーチューバー」という肩書のキャラを殺害していたのだとばかり……。
あるいは、「これまで言及されていなかった六花の父が復活する」といったサプライズの可能性すら予想していました。六花と内海は「響裕太(グリッドマン)と関わったために、記憶のリセットから脱した」と考えられるため、それ以前に忘れていた人々もいると考えるのが自然だからです。
新条アカネの償い。
救われた悪役ヒロイン・新条アカネが何も償えていない点、これこそが問題です。
OPで「君を退屈から救いに来たんだ」とある通り、『グリッドマン』は「新条アカネを救う物語」であることに異論はないでしょう。
しかし。
で、あるならば。
「殺害した人々が元通りになる」という展開あってこそ、文句なしの「救い」になりえるのです。最終回において、新条アカネは救われただけで、「償い」はしていません。
この先のリアルな人生で、どのような生き方を続けるか。償いはそこにかかっています。「めでたしめでたし」ではないのです。
この文章は、『SSSS.GRIDMAN』を否定するためのものではありません。
「グリッドマン面白かった!」で終わってる感想が多すぎやしないか? いやいや、もうちょっと深堀りしてみようよ? という筆者なりの違和を唱えたものです。
再生産され続けるテーマ「引きこもりからの脱却」を、新たな形で描いた『SSSS.GRIDMAN』は抜群に面白かった。最高だった。しかしその上で、示された衝撃のラストは「君は救われた。で、これからどうするんだ?」というメッセージを含んだもの。
救われた神様・新条アカネの償いと再出発を示唆した、重く美しいシーンだと意識して観返すと、また違った味わいがあるかもしれません。
(Edit&Text/ヒダマル)