名無しが巻き起こした事件が終わり、それに伴って最終回を迎えるのかと思いきや、新たな展開で続投を続ける第6期『ゲゲゲの鬼太郎』。
妖怪を憎む新キャラ「石動零」や、バックベアード亡き後の西洋妖怪の動きを魅せるなど、なかなか熱い展開が巻き起こっていますね。
しかしそんな鬼太郎に、どうしても違和感を覚える点が一つだけありまして……。ズバリ、
「子ども向けアニメでは、『死』はなあなあにしとこうよ?」
「『死』を扱う場合は、重く取り返しのつかないことだと伝えようよ?」
考え方が少々古いのかもしれませんが、アニメを楽しむ大人の一人として、筆者はこう感じずにはいられないのです。
第6期鬼太郎の「死」と「命」
勧善懲悪の一筋縄ではいかない、少し捻ったストーリーが散見されるのが、鬼太郎の魅力の一つです。
例えば第54話「泥田坊と命と大地」では作業員の1人が死亡しましたが、物語は単純なハッピーエンドではありませんでした。「死」を扱ったからこそです。
一方で第48話「絶望と漆黒の虚無」では、名無しが犬山まなちゃんの母親を死んだように見せかけましたが、すべてが救われる大団円に繋がりました。「死」を扱わなかったからこそです。
その他にも、第6期鬼太郎には「死」や「命」に言及した回がままありました。その多くが大人も考えさせられるストーリーになっており、「諸手を挙げてのハッピーエンド」ではなかったように思います。
しかしその例外が、第5話「電気妖怪の災厄」と、第57話「鮮血の貴公子 ラ・セーヌ」なのです。
「死」と「コミカル」は繋がらない!
かみなりの回では、女性記者の1人が感電死。そして5月26日放送回では、吸血鬼ラ・セーヌが7人もの女性を殺害しています。
問題はここからで、そういったかみなりやラ・セーヌのキャラをコミカルに描いている点が、「そうじゃないだろ」と感じるのです。
筆者は少なくとも、「子ども向けアニメで死人が出た以上、ハッピーエンドにはなり得ない」と考えています(幼女化ねこ姉さん激萌え! とか阿呆言ってるだけじゃないんですよ!)。
「襲われた女性たちは実は悪い妖怪で、吸血鬼は人間を救うために行動していた」などの理由があればまだうなずけるのですが(必要悪の有無、といった深いテーマに繋がりそうです)、そういったフォローもなく、ちゃんちゃんこに翻弄されるラ・セーヌたちをただコミカルに描くのは、それは子どもに見せる作品じゃないよ、と。
ラ・セーヌに関しては「戦意のない相手にも容赦しない石動零」というキャラのおかげで、なんとか「単純なハッピーエンド」は免れた印象はあります。しかし、「物語の構成上、7人も殺害する必要はあったのか?」「被害者たちの存在が忘れられてないか?」という疑問は否めません。
鬼太郎のような子ども向けアニメで、「死」という重い題材をあえて組み込むのであれば、それに見合った演出やラストを用意してほしい。
アニオタのはしくれとして、そんなことを考える日曜の朝でした。
(Edit&Text/ヒダマル)
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